先日、音喜多駿さんがX(旧Twitter)に投稿したショート動画が大きな反響を呼んでいます。
医療法人会長と政治家が料亭で談笑し、政治献金と引き換えに都合の良い制度を進める──という構図。極めつけは「2万円配れば国民は喜ぶ」というセリフ。政治と医療界の“癒着”を皮肉ったような演出です。
本記事の内容
風刺に“カチン”と来た医師たちへ
私も医師のひとりとして、この動画を見て「ムッとした」人の気持ちはよくわかります。SNS上でも「悪ふざけすぎる」「開業医バッシングだ」「本当に反省しているなら動画を削除すべき」という声が上がっています。
でも、私は開業医ですが、もともと反対方向に考えたくなる厄介な性格です。そこで一度冷静になって考えてみたくなったのです。
「いや、医者もカッカしすぎじゃないか?」
「むしろ、これって“そう思われてる”ってことなんじゃないの?」
「風刺」が刺さったとき、そこに何が映っていたのか
音喜多さん本人は後日、謝罪と補足を投稿しています。
本動画は一部の団体が特定の利害を過度に守ろうとしている構造そのものに課題があると考え、その問題意識を広く共有したいとの考えから作成したものです。医療従事者全体を批判する意図は決してありません。
𝕏 @otokita
しかし、ショート動画という性質上、表現が言葉足らずになってしまった部分があるとの指摘は真摯に受け止めるべきと考えました。
とはいえ、ロングだったら誰も見ないよね!!??
政治も医療も、残念ながら情報発信が“正確さ”ではなく“速さと強さ”で勝負する時代になっていると日々強く感じています。丁寧な説明が届かない以上、短く鋭い言葉が持つ力は無視できない。むしろ医師としても、「どのように伝えるか」という技術と戦略をもっと意識すべき時代に入っているのでしょう。
「そう見られている」という現実を直視する強さ
今回の動画は、医療者から見れば「雑」な描写だったかもしれない。特に「開業医=利権の受益者」「診療報酬=政治で買えるもの」といった短絡的なイメージを助長しかねない構成になっていますものね。
でも、それでもなお問いたい。
「世間からそう見えている部分があるのだとしたら、そこに私たちはどう応えるべきか?」
日本医師会による政治活動、各種団体の推薦制度、診療報酬改定をめぐる交渉──制度として存在していることは事実であり、だからこそ風刺の対象になって当然。
怒ることはできる。でも、“怒りのエネルギーを、内省に変えられるか”が、分岐点だとなのではないでしょうか。
「社会保険料を下げたい」という声にどう向き合うか
音喜多氏の主張する「社会保険料を下げたい」というスローガンは、一見すると理想論に聞こえる。
少子高齢化と医療技術の進歩に伴って、医療費が膨張していく構造的要因がある以上、「下げる」のは簡単ではありません。例えば、医療技術が進化することは医療費を押し上げてしまうことは、医療政策学者の津川友介さんの「医療費上昇の一番の原因は『医療技術の進歩』であり、高齢化ではないって本当?(https://note.com/yusuke_tsugawa/n/nd1ebad990f63)に詳しく書かれています。
でも、だからこそ「医療費を下げたい」との主張は貴重だと考えています。
医療者の側が「下げるなんて無理」「医療費は必要経費」とだけ言い続けていれば、それこそ“利権集団”と見なされるのは当然の成り行き。
むしろ、「社会保険料を抑えるために、医師として何ができるか」という問いを、自ら発信していく必要があると考えています。 たとえば、湿布やビタミン剤、OTC類似薬など、軽症例での保険適用の見直しはその一例なのではないでしょうか。
提案:OTC処方料という制度設計の選択肢
ここで、私は次のような制度提案の叩き台を考えました(医療経済学は素人だけどね)。
■OTC処方料の制度設計イメージ
- 名称案 はOTC指示料やOTC選定・使用指導料や軽症処方代替指導料など
■健康保険の算定要件
- 医師が診察のうえ、症状に対してOTCで対応可能と判断
- 製品名と用法を明記し、カルテに記録
- 報酬水準再診料相当~150点程度(例:1回 1,000~1,500円相当??)
■患者負担
- 初診・再診料に含めるか、一定の定額負担制
■対象疾患
- 湿布(筋骨格系の痛み)
- かぜ症候群
- 胃もたれ
- ビタミン剤
- 花粉症
- 皮膚炎などの軽症疾患
■対象医薬品
- 医療用と同成分を含むOTC(スイッチOTCを含む)
- 医師の指導があれば自己使用可能なもの
勿論こうした制度設計が現実になるにはまだ多くの議論が必要ですが、「保険を使わない=医師が関与しない」ではなく、「保険を使わなくても、医師の知見が活きる仕組み」は十分に模索可能なんじゃないかなあ。
それでも私は、音喜多氏を“敵”とは思わない
SNSでは、動画を不快と感じた医師たちの怒りも少なくありません。でも、音喜多氏は補足ポストでこうも述べている。
「医療現場の最前線で活躍する医療従事者の皆さまに心より敬意を表しますとともに、勤務医と開業医の間にある格差の課題なども含め、『社会保険料を下げる改革』について、引き続き様々な立場の方と意見交換をしながら、その必要性を強く訴えてまいります。」
この一文には、誠実に向き合おうとする姿勢を感じました。そして、そういう政治家と対話することを、私は拒否したくないのです。
医師として、納得できない部分があったとしても、音喜多氏が“敵”ではないことは明言しておきたいと思います。
むしろこうした刺激的な問題提起をきっかけに、「政治と医療がどう向き合うべきか」を考える場がもっと広がればいいのです。
最後に──鏡を割るのではなく、のぞき込む
風刺は、ときに痛い。でも、それは「当たっている」からこそじゃないでしょうか。
怒りを覚えたなら、それは自分の中にも何か触れられた部分があったということ。だったら、その感情を一歩引いて見つめ直すところから、対話が始まると考えたいです。
鏡を割ってしまう前に、もう一度ちゃんと、のぞき込んでみよう。
医療者としての言葉は、誰に届いているのか。
社会は私たちを、どう見ているのか。
思い返せば、ハンナ・アレントはこう語っている。
「思考することの唯一の目的は、物事の当たり前さに揺さぶりをかけることである」
あの動画が突きつけたのは、医療と政治の「当たり前」に対する揺さぶりだったのかもしれない。
そして、その揺さぶりを真正面から受け止めることこそ、専門職に求められる思考の成熟だと自省しています。
私は、こう結びたい。
「汝の人格と、すべての他の人の人格とを、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱うな」
──イマヌエル・カント『実践理性批判』